続けていくことに対する忍耐力について

職場にいる、「感受性が高い私にはこんな仕事耐えられない」とか言い出すアホからメールが来て、「○○さん(私)、やっぱりこういう仕事を続ける自信がなくなりました。昨日患者さんが亡くなったんですけど、他の人が冷静に仕事を続けるのを見てやっぱりそういう死に対する無神経さには耐えられなくて・・・」等々、何やら切々とした心のうちが書いてあった。


私は返信に、「だったら辞めなさい」と冷静に打ってそのまま送信する。

私の職場は急性期病棟なために、死は間近にある。1日に3人とかお見送りすることはざらにあること。私は看護婦としての職業柄、死は日常茶飯事なことで、いちいち誰が何人死んだかなんて覚えていないし、毎日毎日今日はもうこの人無理そうだなーと思いながらケアをおこなったりして、たとえさっきまで会話が成立していた人が亡くなっても悲しくないし涙も出ない。死への残り時間が読めるようになると、その後の事務仕事が大変だなーとあらかじめ別の仕事を先に終わらせておく、ということも冷静にできるようになって。死は必ず来るものだから、結婚式場の職員の仕事は毎日が結婚式だし、葬儀場の職員の仕事は毎日が葬式であると同じこと。そういうものだと納得はしている。

でもやっぱり死を迎えたその日は疲れるのはどういうことなんだろう。

小さい病院は良い点も悪い点も、家族的な雰囲気があるということ。長年通ってきている顔見知りが、小さい体の不調を訴えて受診し、手術や入退院を繰り返してやがて死を迎えるという場合ばかり見る機会が多いということ。去年は旦那が亡くなり、今年はお母さんが・・・というかそれが全てで、病人も家族もお互い顔見知りで、地元の店なんかで挨拶されたりする人を最近そういえば見ないなー、あ、そういえば亡くなったんだ・・・ということを思い出すことが多い。看護学校の担任の先生に退学を迫られて泣いていた時とかに、アナタはいい子なんだから私が言いに行ってあげるわよと慰めてくれたおばあちゃんももうすでに鬼籍に入っている。そういえばそのおばあちゃんが亡くなる際に、後輩が気管にチューブを入れて痰を吸引しようとしたので、「もうやめてあげようよ」と止めたことも思い出した。きっと私はその時も冷静に見えたに違いない。でもそのおばあちゃんが亡くなったときもやはり悲しかったのだ。そんな表面的なことしか見ていない人からメールをもらった日はいろいろ考える。毎日家族が死んでいって笑っている人間がどこにいるというのだろうか。それでも冷静に仕事をしているように見えているということは、きっと私はこころのどこかを毎日削って仕事を続けているのだろう。それが感受性というやつなのかもしれない。

そんなことに慣れる日は絶対にこない。